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今夜の番組チェック


 

 感じたこと、思ったこと、やったことを自然に書いていきたいと思う。日本とさっぱり変わらない生活かもしれないし、全く違った感かもしれないけど。

 2001年10月〜   
 2001年9月〜
 2001年8月〜


2001年10月16日(月) サンサルバドル、ロサンゼルス
 朝、4:10に連絡所を出発し、横田調整員に連れられ、空港に向かう。一時帰国ではあるが、うれしいことに何人かの人が見送りにきてくれる。朝ごはんのおにぎりは美味しかった。見送りの人たちに、「Hasta manana(明日また会おうね)」と言い残し、一時ニカラグァを去ることになった。
 
 そして、エルサルバドルのサンサルバドルで乗り換え。空港では、幸運にも同期のエルサルバドル隊員3人に会うことが出来た。約1時間という非常に短い時間だったが、約6ヶ月半ぶりに会え、うれしいものがあった。ちょっと博打めいたところもあったが、仕事を休んで会いに来てくれた彼女達に感謝したい。また、空港の警備員さんにも感謝したい。
 
 それから、ロサンゼルス到着。この広いLAを半日どうしようかと思ったが、近くのサンタモニカにバスで行く。タイ料理屋で腹ごしらえをし、海岸を一人ぶらつく。海岸にはサイクリングロードのようなものがあり、アメリカらしく、サイクリング、ローラーブレード、ジョギングなどをする人が目立つ。道端でマッサージを10分ほどやってもらい、ホテルへ帰る。
 久しぶりのアメリカだが、LAの空港も大きく、広々とした道、数々のショッピングセンター、ある程度裕福そうな人々がいる。もちろん、黒人、メスチーソもいるが、ニカラグァ帰りの俺にとっては、自然に感じることが出来た。
 さあ、明日から(日本時間では明後日から)日本だ。


2001年10月15日(月) 荷物をまとめマナグアへ
 朝、会議に出るべく職場に行った。一応、皆に一時的な別れを告げた。ちょうど今日から提携先のINATEC(職業訓練校)の女子学生が研修を受けに来てた。なかなか素敵な子だった。2ヶ月ほど研修を受けるということなので、「また、今度ね」と言っておいた。
 
 銀行に行ったら、「テレビで歌ってるところみたよ」と言われた。土曜日の文化紹介で合唱したのがブルーフィールズのテレビで流れたらしく、何人かに声をかけられた。
 
 家に帰り、荷物をまとめ、さまざまな事が起こった我が部屋を後にする。
 昼過ぎに、マナグアの連絡所に行き、夜は、滞在してた他隊員の人たちが鍋パーティーをしてくれた。まさか、先輩隊員より早く日本帰る(一時帰国だけど)とは思ってなかったけれども。
 翌朝が4:10出発のため、うだうだ話しながら朝まで過ごした。


2001年10月14日(日) ブルーフィールズ案内
 今日は、アメリカ人のcooperante達がBARで朝ごはんのイベントをしていたので、行ってみた。パンケーキとコーヒーのセット、なかなか美味しくはあった。ただ、日本文化紹介は彼らと別にしてよかったと思った。BAR内では、来客数も限られているし、また、音楽も騒しかったので。
 
 午後は、たむたむとブルーフィールズ見学に行った。まず、丘の上のレストランで、眺望を眺めながら、お茶をした。その後、ちょっと外れた地域もみながら、公園に行った。公園では、まだイベントが行われており、「サン・ヘルニモ祭」での悪魔の衣装した子供たちもたくさんおり、女の子達を叩くべく追いまわしていた。照準をたむたむに合わせられたらどうしようかとも思ったが、大丈夫だった。
 
 そして、バスに乗り、ブルーフィールズの北端にある大学を見学し、景色をみた。ここからは、東に湾、北と西にはジャングルと川を望むことが出来る。ちょっと日本の田舎の雰囲気にも似てるところがあり、ぼーっとしてた。


2001年10月13日(土) 日本文化紹介成功
 朝、予定よりちょっと遅れて始まったが、市場改築竣工式が行われた。日本大使館からも渡辺参事官、石丸さんが出席された。本番に強いニカラグァ人らしく、ちゃんと記念のプレートなども準備してた。暑い中行われたがよい式だったと思う。
 
 午後からは、日本文化紹介、日本映画上映及び日本の歌合唱を市役所前で行った。我々の人数が少ないため、ささやかなものであったが、想像以上に好評で多くの人が来てくれた。この件については、また、「活動内容」にて記載したい。
 
 また、他にも各学校のバンド、ガリフォナ族の踊りや、ミス・ブルーフィールズコンテストなども行われ、ブルーフィールズ中心部は結構な盛り上がりをみせた。なんで市制98年祭ぐらいでこんなに盛り上がるかよくわからないが、いいお祭りだったと思う。


2001年10月12日(金) 明日が本番
 たむたむの出迎えに空港まで行った。気分転換でちょっと余裕をみながら歩いていったら、飛行機が30分も早く着いたらしく、もう到着してた。遅れるのが当たり前のニカラグァでなんとも珍しい。はじめて同期がブルーフィールズに来てくれたので、心が弾む。まあ、宿泊先となるむっちゃんの家、港、俺の職場などを案内する。
 
 夕方からは、市役所で明日の準備をした。日本の歌(花」「赤とんぼ」「故郷」)を歌うので、その練習をした。けっこう上手に歌えたつもりなのだが、女性陣からご指導を受けた。その後、日本の写真のポスターや各種展示物を飾ったり、看板をつくったりする。最近、市長に会う機会が多く、今日も現れて、まあ親しく話し掛けてもらう。しかし、もう明日が本番なのに市役所のプログラムは明日決定するという。なかなかいきあたりばったりである。こんなときにも日本人の緻密さを感じる。


2001年10月11日(木) 映画リハーサルOK
 午前中は、職場の模様替えだった。俺は、冷房のない部屋に移動となり、ちょっとショック。また、1室をガリフォナ族のNGOに譲ることになった。まあ、仲間が多くなっていいかなと思う。
 
 午後は、順ちゃん、むっちゃんが文化紹介で売る「あんぱん」の仕込みをしてたので行ってきた。順ちゃんがパン屋で一緒に試作をつくってきたそうで、前回の試作品と比べて随分改良が加えられてた。とくにあんこの割合を増やすことにより美味しさが飛躍的に向上した。明日の朝ごはんのために、もらってくればよかった。
 
 夕方は、市役所で上映予定の映画のリハーサルをした。以前、学校の体育館で行った際に、ヒューズがとんだ実績があるため、慎重を期したが、画像も音もでた。なんとかなりそうかなって感じだ。今のところ「シコふんじゃった」(本木雅弘主演)の上映予定。前回も、これをしたらしいが、ニカラグァ人には、とくにふんどし姿が大爆笑だったらしい。
 
 明日は、同期のたむたむ(司書)が応援にブルーフィールズに来てくれるが、同期で初めてこの地を訪れてくれるのでなかなかうれしいものである。


2001年10月10日(水) 市長と同乗 
 重い荷物を抱えてブルーフィールズに帰る。順ちゃんと2人だったので、まあなんとかなった。
 夜は、むっちゃん、順ちゃんと3人でご飯を食べに行く。俺が一時帰国した後のことなどを話す。また、来週には日本にいることが自体が信じられない気持ち。
 帰り、タクシーに乗ってたら、なんと市長がただ1人でタクシーを待ってて、一緒に乗って帰った。ブルーフィールズ市長は、なかなか気さくな人で俺は好きだ。亡くなった奥さんはスペイン人らしく、スペインに4〜5年住んでたらしい。まあそういう雑談をしながら帰った。


2001年10月9日(火) 日本一時帰国決定 
 文化紹介のための道具を借りるべく大使館を訪問する。映写機、映画フィルム、変圧器、はっぴ、浴衣などを借りる。結構な量で、特に映写機は重量もある。これらをブルーフィールズまで持って帰らなければいけない。
 
 また、10月4日に右手薬指の怪我の件で日本のドクターと話し、考慮した結果、治療のため、日本へ一時帰国することになった。思いもよらぬ展開となったが、そのことについてJICA調整員の方々と帰国方法などについて調整した。16日ニカラグア発、18日東京着のスケジュールで帰る予定。尚、米国テロ事件の影響で、米国系航空会社利用の自粛を求められているため、他の航路を利用する。


2001年10月8日(月) 攻撃開始 
 海亀産卵旅行から帰ってきたら、あーち(青少年活動)から米英のアフガニスタン攻撃が始まったことを聞き、ニュースをみてみた。正直、とうとうこの日が来たかという感じだった。米国の今までの準備から考えるともはや攻撃は必然だったけれども、こうなると出来る限り早期に終了してほしい。ただ、タリバン側も徹底抗戦を表明してるので、アメリカの術中にはまり、ぼこぼこにされてしまうことを恐れる。テロを起こした経緯、理由などを表明する場をつくり、第三国側も入り、うまく和平の道を探って欲しいと願う。

 ニュースを見た後、、ほぼ徹夜明けなので、昼寝をした。起きてからお腹が空いてたので、冷蔵庫を物色してみると、なんと「お好み焼き」があった。しかも運良く持ち主の同期みっちーが現れたので、さっそくネゴる。結果、半分getに成功。彼が日本から送ってもらったおたふくソース、マヨネーズ、かつおぶしを使い、お好み焼きを食べる。この感触、まさにお好み焼きだった。さらに、ニカラグァで購入の肉がうまくマッチしており、非常においしかった。
 夕方過ぎには、全部getに成功。明日の朝ごはんが楽しみだ。


2001年10月7日(日) 海亀産卵見学 >
 前から見たかった海亀産卵を観に行った。幸運にも観ることが出来た。この旅行については後日旅行記に記すこととしたい。


2001年10月6日(土) 休憩 >
 昨日の疲れから今日は、ほぼ休憩の日にした。昼過ぎから中華料理を食べに行った。「ASIA」というお店。前行ったときは休業日だったので、開いていてよかった。チャーハン、水ギョウザ、焼きギョウザ、豚肉炒めなどなどおいしく食べることが出来た。さらに、デザートにクレープを食べにいった。これもおいしい。ただ、ニカラグァは生クリームがないのが残念。


2001年10月5日(金) 疲れたファッションショー >
 今日は、各国の衣装などを紹介するファッションショーのようなものがあったので、俺も参加させてもらった。日本のときは、ニカラグァ人1人が侍のような衣装を着て馬に乗って登場し、私を含む日本人15名ほどが舞台で阿波踊りを踊るといった段取り。
 我々は、夕方から軽く練習し、阿波踊りをビデオで研究し尽くし、浴衣に着替え、17:00前に会場に到着した。開始は19:00と聞いていたので、まあ舞台の下見をかねてちょうどいい時間かなという感じだった。ちなみにこのショーの入場料は250コルトバ(約2500円)と破格。ただ、利益は病院建設に寄付されるとのこと。
 
 準備を終えて、ショー開始を待つが、19:00になってもまだ始まらないというか準備終了の気配すらみせない。まあ、ニカラグァ時間というのに我々も慣れているため健気に待つ。ただ、時はどんどん過ぎていき、浴衣姿ではクーラーは寒いしで、だいぶいらいら感もあふれてきた。結局、21:00過ぎに開始となり、我々の出番はなんと22:30をこえていた。
 あいかわらずニカラグァらしさを感じることになった半日だった。収穫といえば、みんなで浴衣を着て外でたむろしてるときに日本の花火大会の後の雰囲気を味わえたことくらいかな。


2001年10月4日(木) 更なる衝撃 >
 午前中、市役所からtelがあり、市場竣工式のことなどいろいろ決めてるようでひとまず安堵といった感じ。
 夕方より首都マナグアに向かうべく、ブルーフィールズ空港に向かう。最終便に乗るために待っていたのだが、なんと飛行機の調子が悪い模様。夜のアポがあるため、マナグアにいかなきゃいけないのにーって感じで職員に詰め寄ったら、他の飛行機をよこすから待てとのこと。ただ、暗くなったら飛び立てないと言われた。まあ、なんとか17:30にマナグアに向かうことができた。
 
 夜、怪我してる指の件で、日本のJICA顧問医師と電話会談をする。これだけのために首都から電話をしなきゃいけないのかと思っていたが、話してみると非常に好感をもてる方で真摯に対応して下さった。
 しかし、そのドクターからでた言葉は・・・・・・


2001年10月3日(水) ショック >
 実は密かに引越しを計画していて、今日、いよいよ新居となる大家にその旨を伝えたのだった。そしたら、なんと他の人に貸すことにしたとのこと。月曜日に家をみて、水曜日に決定という早い決断にあったにもかかわらず悲しい結末。家を借りると言った人が「やっぱやーめた」と言う可能性に期待はしてみるが、今回のことには、ちょっとショックは隠しきれず。引っ越すまでのことや引っ越してからのことなど、様々なケーススタディをした後だけに、なんか生活のはりが失われた感がある。
 
 昼は、咳がひどいため、職場に行くのをやめ、家で寝ていた。ごはんだけつくり、ひたすら寝たという感じだ。


2001年10月2日(火) Davidまでも >
 日本文化紹介についてだが、今日、大使館、市役所と最終調整して日程は13日に決定した。何気にもうすぐだ。日も日なので、他の地域の隊員が手伝いに来てくれるのは難しいかもしれない。
 また、夜は、他の国のcooperante達ともミーティングした。といっても、日本とアメリカの2国といってもよかった。結論としては、彼らは彼らでレストランを借りて、ちょっとしたパーティーのようなものを同じ日にすることとした。
 
 昼間は、同僚のDavidと零細企業家や市場などの写真撮影をしてた。なかなかこういう機会はないので、いい機会だった。いろいろDavidとも話したが、彼も19日でブルーフィールズを離れ、来月には米国に帰国するとのこと。彼は、おだやかで、かつ、ADEPHCAでも一番の働き者といってもいいくらいなので、なかなか寂しいものがある。


2001年10月1日(月) 両替商の利益は一体どこから? >
 昼、ちょっと銀行に行ったんだけど、なんかやけに込んでた。そういえば、今日は月曜日。月曜日は、いつも込んでる。こちらでは、給料が1週間分を月曜日にもらう人が多いと聞いたことがある。
 しかし、いつも疑問なのが、銀行付近の道で両替を扱ってる両替商の人たち。彼らは、ほとんど銀行と同じレートで両替してくれるのだけど、彼らの利益は一体どうやってでるのだろうか?しかも、いつも大金持ってるし。誰か答えを知ってたら教えて欲しい。


2001年9月30日(日) サン・ヘロニモ祭
 今日は、サン・ヘロニモ祭だ。男の子が女性、悪魔などに変装して、音楽にあわせながら、街を踊りまわるといったもの。
 一部の参加者がむっちゃんちで着替えをするというので行って見た。10代半ばから後半の男の子がつくりもののブラジャー、おなか、おしりをつけて、その上から女性の服を着てる。昔からニカラグァでは、小太りの女性が好まれてきたのだろうか?そしてお面をつける。俺も服以外は試しにつけさせてもらった。
 
 街に繰り出してみてみると、なかなか面白い。彼らは、両手に内輪をもっており、飾りかなんかかなと思ってたら、なんとそれで道にいる女性をたたき始めた。なんかそれが習慣らしい。レストランでお昼をとっているときも、女の子が叫びながら走ってきて、結局、数人の悪魔達に囲まれたたかれてた。女の子にしても1回くらいは叩かれたいところもあるが、結構、手加減なしなので痛そうである。俺も来年、同じ目線に立つためにも悪魔役やらしてもらおうかな。


2001年9月29日(土) 平成13年度歳出契約「あんぱん」試作その1
 夕方、市役所と日本文化紹介の調整をした。こちらの考えを伝えたが、日程が計画より1週間早まり10/13となる可能性がでてきた。明日、その場合に備えての準備をし、月曜日に大使館とまたその調整しないといけない。何気にもうすぐだ。販売予定の「あんぱん」を順ちゃんとむっちゃんが試作してくれたが、なかなかおいしかった。ただ、日本の「あんぱん」をしってるだけに、まだまだ改良の余地はあり、パンの種類や、あんこの配分など、考えてくれると思う。ニカラグァには、「あんぱん」はなく、豆に塩は入れるが、砂糖を入れる習慣はない。何人かのニカラグァ人に食べてもらったけど、今のところは好評の傾向にある。

 夜は、ニカラグァ人女性2名、日本人女性2名と俺の計5人で踊りに行った。こちらでは、基本的に男と女とペア、もしくは女の子同士で踊るのが一般的なので、一緒に行ってくれる女性がいてラッキーではある。今、この街の日本人男性は俺だけなんだもん。男だけでDiscoに行って、現地調達率を引き上げることも国際経済的見地にたてば、効率のよい直接投資となりニカラグア経済の発展に寄与することになるかもしれないが、それはまた他の機会にとっておくこととする。

 深夜、汗だくになって帰ってきたら、水が出ず。結局、樽の下に、少々たまっている水を丁寧に使いながら水浴びをする。


2001年9月28日(金) 診察料>
 先週から、ずっとせきが止まらないので、また病院に行った。なんか病院の常連気分になってきた。内科の医師もキューバ人でレイナルド先生。なかなか明るい人で、俺の前任者も彼にかかってたらしい。いちおう診察してもらい薬を処方してもらう。そしたら驚いたことに薬の請求額が650コルトバ(約6500円)を越すではないか。俺もちょっと大目に300コルトバほど持ってきたんだけど、さっぱり歯がたたず。結局、、薬を1種類買うのを諦める。医師への初回診察料も130コルトバと高額だった。
 
 あと、この前約1週間にわたり火傷の治療をしてもらっていた外科の医師のところにも行ってみた。だいぶ回復した様子をみせるのと診療費の確認をするためである。ちょっと処理があらいところもあるが、なかなかいい人だ。それで、診療費を聞いてみると、俺のスペイン語では、「いいよ。別に俺はたいしたことしてないから」という理解だった。う〜ん、ほぼ毎日消毒して薬塗ってもらったんだけど・・・。まあ、それなら、それで早く帰ろうと思い、お礼を言って帰ってきた。


2001年9月27日(木) さらば友よ>
 今日、同僚のTreverがADEPHCAを辞めて米国に行くということを聞いた。しかも、今週末、ブルーフィールズを去るらしい。なんか最近、仲良くなった人から去ってしまう傾向にある。彼とは、一度バスケを一緒に観に行き、飲みに行った思い出がある。そのときに、前の彼女を紹介してくれたが、なかなかかわいかった。今の彼女は、今、マイアミで働いており、この12月お子さんが生まれるそうだ。しかし、この前、彼は、「もう一人彼女できたよ」とか言ってたしなあ、よくわからん。ちなみに、彼の口癖は、「Tranquilo, Hiro」(訳すとするならば、「変わりなくやってるか、Hiro」くらいかなあ?)


2001年9月26日(水) ニジェールから si se puede>
 今日は、やたら朝ごはんがでてくるのが遅いなと思ってたら、ガスが切れたらしい。もう1回催促にいったら、お手伝いさんのArosaが炭で必死こいて作ってたので、そっと見守った。
 
 郵便局に行ってみた。久しぶりの郵便で、ニジェールの同期隊員からだった。やっぱり手書きにはなんともいえないぬくもりがある。元気でやってるみたいで、職場である病院に畑をつくり、病院給食に出すための野菜を育ててるということ。栄養失調の子供達への配給ができればいいなと考えてるみたい。ニジェールは、ニカラグァより一層厳しい環境にあると思うけど、目標をもって活動してる彼女に安心と羨望を感じたよ。さらに、ギニア虫撲滅の啓蒙活動もはじめるみたい。
 
 夜は、与党(PLC)の大統領候補がブルーフィールズに来てるということで、その集会を観に行った。17:30からということで、ほぼちょうどに行ってみたら、まだ候補のBolanosは到着していなかった。しかしながら、党の歌、掛け声などにぎやかにやっており、結構な人が集まってた。結局、Bolanosが到着する19:00までその場にいたが、ずーっと同じように、名前の連呼、歌などをやってた。周りには、PLCの赤い旗が降られながら。ちょっとしたコンサートみたいな感もあるけど。80歳くらいのBolanosの姿をみつけ、帰途につく。だって、なかなか演説始まる気配がなかったんだもん。


2001年9月25日(火) entonces>
 また久しぶりにという出だしになるが、朝、ウォーキングをした。朝、30分歩くだけだが、なんとなしに健康感はあふれるところがある。本来ならジョキングをするべきとろだが、あえてウォーキングというところがお洒落なところでしょうか。
 
 職場では、書類作成をいそしむ。といっても、ADEPHCAの仕事ではなく、大使館への映画貸付申請(もとは順ちゃんにつくってもらった)やら文化紹介隊員通知、JICAへのその他報告書、スペイン語文書邦訳など。
 
 夕方は、ピースコーのメンバーとお茶をしに行く。同僚のMaxは、ハンバーガーをsin salsaで頼んでた。また、健康のためだとかと言って来るのかと思ったら、マヨネーズやらソースやらそういうのが嫌いらしい。世の中には、いろんな形で食べ物が嫌いな人がいるもんだ。
 ちなみに、彼は「entocces」(それでは)が口癖である。けっこう連発する。


2001年9月24日(月) 家探し>
 久しぶりに職場に行くと、Directorが、「今度、2人で見返り資金申請の説明に行こう」と言って来たので、その積極さに気をよくする。
 
 午後は、隊員の順ちゃんが引越し先を探しているので、むっちゃんと3人で観に行ってみる。観に行った家は、なかなかいい感じで、きれいだった。水も出るし、トイレも清潔そう。彼女もなかなか気に入ってるようだった。
 ただ、問題があり、中心部から遠く、家の側の道はアスファルトではなく、近所もポブレ(貧しい)人が多いようだった。第三者的にみると残念だけど縁がなかったと考えるしかないと思う。
 
 なかなか、ブルーフィールズでの家探しは難しく、安全性、利便性、価格を満たしている家はなかなか少ないのが現状かもしれない。 


2001年9月23日(日) 大統領選挙の宣伝活動>
 久しぶりに我が街ブルーフィールズに帰る。空港へ向かう途中に思ったが、ますます大統領選挙にむけてのプロパガンダ(広告)が増えている。道沿いに植えられている木々もそれぞれの政党の色に塗られていく。野党のサンディニスタ側のイメージカラーはピンクのため、ずいぶん街がけばけばしくなっていく。サンディニスタは、本来のイメージカラーは、赤と黒のツートンカラーなのだが、今回は、他党と組んでいるからか、イメージを一新したいからかピンクを使用している。ちなみに、与党のPLCのイメージカラーは赤。
 
 また、テレビ、ラジオでも大々的に宣伝をやっている。各政党のCMソングを歌うのを趣味としている俺だが、最近、様々なパターンが新しくできてきて対応に苦慮している。特徴的なのは、自分達の番号(ニカラグァの大統領選挙の投票は、マークシートに記入する。各政党番号をもっている。)を相当アピールしている。PLCは1(ウノ)、サンディニスタ側は2(ドス)。
 
 俺は、サンディニスタの
「ドス、ドス、ドス、 ドス、ドス、ドス、 ドッス!!!」と連呼する宣伝が好き。ある市長がサンディニスタの市役所では、朝、挨拶の際に、2本指を立ててサンディニスタのサインをするらしい。いわゆるピースサインである。だから、昔、日本でピースサインをしながら写ってる写真とかを彼らに見せるとサンディニスタ支持者と思われるだろう。ニカラグァで写真に写る人は、ぜひそのことを心に留めてピースサインしてもらいたい。
 
 なんやかんや言いながらブルーフィールズに到着し、夜は、協力隊員全員が揃い、日本食に舌鼓をうつ。


2001年9月22日(土) 初野球観戦のつもりが・・・>
 昨夜、雷が落ちたそうで、ずっと電話が不通。せっかく書いたメールのお返事も送れず。
 昼は映画を観に行く。ただ、難しくて、おもしろくなかったので、寝てしまう。返してくれ、俺の25コルトバ(250円程度)って感じ。
 
 夕方は、大学生選抜のニカラグァ-キューバの野球の試合を観に行く。1-0でニカラグァリード。いい感じだなーと思い、ニカ人の真似をしながら応援してた。ニカラグァは中米では珍しく野球が人気なので、結構、応援にも熱がはいってた。また、いずれはキューバの大反撃があるのかとも期待した。
 
 そしたら、また雨。もう勘弁してよー。結局4回までしか見れずに帰る。結構、遠いところから観戦に来てたニカ人もいたようだったし、残念だった。


2001年9月21日(金) 火事ないよねー>
 朝から指の治療のため病院に行くが、結局、また来月マナグアで診察をするということになった。さらに、日本のドクターとも電話診察を受けることになった。まあ、マナグアに来る機会ができることは少々うれしいけども、さっさと治ってほしいというのが本音。
 午後は、少々ふて寝。
 
 夕方、同期のもよ(都市計画)が連絡所に来る。一緒にテレビをみてたら、火事のニュースがやってた。俺いわく「ああ、また火事かよ。」その後彼女いわく
「ねー、そういえばニカって火事ない
よねー!」これには、さすがの俺の心の傷も反応し、すぐさま延髄切りをかましてやった。そしたら、「あー、ごめんねー!ニッ」とか言ってた。ほんと困ったというか、純粋というか、まあ、また彼女の伝説が生まれたのは事実。彼女は、その日のうちに、ニカラグァ北西部エルビエホへと帰っていった。
 
 その後、なんとまた大雨。当然のごとく浸水。もう勘弁して頂きたい。また、必死こいて水の除去作業。俺も側面から作業に邁進する。作業後、なりさん達がつくってくれた、雑炊、スパゲティはおいしかった。


2001年9月20日(木) マサヤに行く>
 今日は、陽子(同期 青少年活動)の活動を見学しに、同期のタムタムとマサヤ市に行く。
 陽子は主に、学校にも行かず働いてる子供相手に、授業やレクリエーションなどを行ってるとのこと。今日は、陽子とタムタムで紙芝居「おむすびころりん」をする予定だ。
 マサヤは、民芸品などが有名で、ニカラグァの観光地のひとつ。でも、道とかはごみが多く、なんか「雑然」といった感じだった。お昼は、おいしいメキシコ料理屋に連れて行ってもらう。 
 
 昼食後、散策してたらポテトチップスを食べながら歩いてる同期のボンさんに会う。まあ、せっかくなので彼の職場であるマサヤ市役所にも行く。しかし、電気を止められてるらしく、どうにも暗い。
 
 陽子の職場に到着して、しばらく待つが、どうも算数の授業が長引いてるらしい。結局、紙芝居は後日に延期することにした。
 ただ、職場を訪れて感じたことは、ニカラグァには、多くの子供達が働いている現状があり、陽子の職場のようなところは大切だなあと思った。陽子は、街の食堂で、教え子から「1ペソ(10円)ちょうだい」と言われることもあると言ってた。1ペソくらいでどうすんだと思うけど、よく「1ペソちょうだい」と寄ってくる子供達に出会う。何も働かずたかってばかりいる子もいるが、車の窓磨いたり、重いバケツに水いっぱい入れて売ってたり、靴磨きしたりしてる子も山ほどいる。
 陽子いわく、遊びとしては、「色おに」が結構喜ばれたらしい、それに対して、「だるまさんがころんだ」は不評だったと言ってた。


2001年9月19日(水) 浸水>
 今朝から密かに旅に出ようと思ってたんだけど、どうものどの調子が悪い。よって、やめる。
 事務所にて、各種申請などを行う。青年海外協力隊も公的機関の一員であるので、様々なことにいろいろ書類提出しなければならないのだ。
 
 夜は、お酒をたしなんでいたら、なんと大雨。しばらくすると、隊員連絡所内に水が浸水してくる。よって、夜中にもかかわらず、皆で水の除去作業。けっこう水が入ってきて、ずぶぬれ気味になる。ほんのりした酔いがちょっとだいなし。なんとか終了して寝た。


2001年9月18日(火) 11の数字>
 朝から病院に行く。火傷のほうはだいぶ回復したが、今日は、右手薬指の件。結果としては、思ったよりよくはなってなかった。いちおう、固定器のようなものは外したが、第1間接は結構曲がったまま。また、動かすのも少々の困難がある。リハビリも含めるとあと2ヶ月ほどかかりそうとのことで、ちょっとショックを隠しきれず。
 
 午後は、気晴らしに同期のタムタムがつきあってくれる。昼飯(ニカめし)を食べに行き、それからMiradorというマナグアを一望できる場所に行く。そこには、大きなニカラグァ国旗がたっている。そこでは、360度マナグアを見渡すことが出来るが、ほとんどは緑で埋められており、少し、ビル、道などが顔を出してる程度。あえてお洒落な表現を探すと「杜の都」?そこで、警備の兵士と仲良くなり、いろいろ話をしてみる。その兵士、フランシスコいわく、昔そこには、独裁者ソモサの邸宅があり、また刑務所などもあったそうだ。彼も、ここで外国人で話すのが好きらしく、いろいろ案内してくれた。
 
 夜は、大使館の橋本さん、金本さん、隊員の西依さんと食事をする。ニカラグァに来て初めてイタリア料理屋に行く。そこで、今回のアメリカテロ事件で11という数字がやたら関係するのではという話題になる。
・はじめに行方不明と報道された飛行機数 11
・ひとつの飛行機の乗客数65 6+5= 11
・9月8日は、アラブのお正月? 1月1日=11
・APHGANISTANの文字数 11
・THE PENTAGONの文字数 11
・世界貿易センタービルはツインタワー 11
他にもあったけど忘れてしまった。


2001年9月17日(月) 12年度3次隊の悩み>
 夜、同期のボンさんとみっちーとタコスを食べに行く。活動の話をする。我々の隊次は、こちらに来て、はや5ヶ月か経つが、やはり各自活動に焦りとか悩みとかはあるだろう。
 ボンさんは、今日は、大使館で草の根無償の説明を受けてきたらしい。みっちーも毎日野球を子供たちに教えてるのだが、今後どうしていこうかとか考えてるみたい。俺の活動もたいしたことをしているとは、まだいえないが、一応見返り資金の申請を行ったことで、他の人からみたら、してるように思えるところもあるかもしれない。まあ、そんなこんなの各自の活動話をした。
 
 青年海外協力隊の活動は、教師のように教える教室などがある場合もあるが、基本的には、自分で探すところが多々ある。また、ゼロからなら逆にやりやすいが、今、ある程度あるものを変えていくといった傾向のほうが強い。さらに、何をするにしてもお金が絡んでくるケースも多い。そういう面で、今、我々の隊次は悩んでいるといえるかもしれない。


2001年9月16日(日) 11月だけ>
 最近、早起きが多いせいか、マナグアに来ても早起きしてしまう。
 昼からは、同期と映画に行く。英語名で「Sweet Novenber」キアヌ・リーブス主演のもので俺的にはなかなかよかった。ニカラグァは、どうもアクションものの映画の上映が多く、こういう系のものは少ない。仕事一筋、それに大きなプライドをもつキアヌが、会社を首になるが、一人の女性と11月のみ一緒に時を過ごし、人生の大切なものを教えてもらう。ただ、その女性が・・・・・、というストーリー。


2001年9月15日(土) またマナグア>
 また首都マナグアに行く。今夜は、大使館の九笹氏の家にお招き頂いた。大使館石丸さんと3人で食事をする。
 まずは、ブルーフィールズ文化紹介の段取りを調整させてもらい、ある程度はよい回答をもらうことができた。やっかいなのは、映画機器のマナグアからブルーフィールズへの輸送かな。
 話は、大使館内の話から、テロの話、日本の歴史の話など話題は多岐に渡り、興味深かった。九笹氏は、非常に知識の幅が広いので、こちらも楽しい。ただ、酒がまわってくると多分無意識状態に入られてることと思うけど。
 


2001年9月14日(金) マーチ本番>
 今日は、ブルーフィールズ最大のイベントの一つのマーチがあった。朝、7:00から各学校が衣装を着て、行進を行った。俺も、朝から観に行ってみる。なかなかカラフルな衣装をきてて面白い。親、教師も相当な気合を入れていることがわかる。ただ、終わりはあっさりしたもの。
 夜は、芝っちのお父さん、それから欣ちゃん(マナグア隊員 冷凍機器)の家族がブルーフィールズに来られていたので、皆でBBQをした。家族の方が、日本から食材を持ってきてくれてたり、ロブスターなどの食材をつかったりして、豪華なBBQとなった。
 その後、先週と同様、ディスコに行った。同僚のTraverもばしばし踊ってた。明日からは、また首都マナグアに行く。


2001年9月13日(木) マーチ>
 明日は、独立記念日(9/15)の前日だが、大規模なマーチがある。小学生から高校生にわたり、大行列で音楽を鳴らしながら行進するのである。今月は、ほぼ毎日その行進の練習をしてる。晴れのときは、何人かの子供が倒れるらしい、また、水を持って、練習を見守る親の姿もみえる。ちなみに音楽の練習は、7月から始めてた。いよいよ明日本番だが、まあ楽しみ。
 また、明日のために、多くの物資が準備されており、街もニカラグァの旗で埋め尽くされてきている。各家もペンキの塗り替えなどを行い、その日を迎えようとしている。一大イベントである。


2001年9月12日(水) 先輩>
 今日、大学時代の先輩からメールをもらった。他の先輩の結婚式のパーティー写真を送ってくださった。先輩達の顔が懐かしい。大学を卒業すると、世間で年上の女性とお話する機会はあるが、やっぱり大学の先輩は違う。なんかお会いしたり、話したりしても、感覚が大学時代のままである。
 先輩は、俺のことをがんばってるんだろうとか思っててくれてるのかもしれないけど、まだまだ先輩に「よくやったね」と言われる状態ではないよね。火事まで起こしたし。まあ、「先輩に、「よくやったね」って言われたいからここにいるの?」と聞かれたら、ちょっと間をおいて否定するだろうが、ちょっと言ってもらえるようになりたいのも心の奥にはあると言わざるを得ない。
 あと、先輩には、調子がいいときより、悪いときほど話を聞いてもらいたくなる。

 アメリカで亡くなった人の多くも、事件前までは、俺と同じような日常的なことを考えてたのだろう。攻撃する側の人々は家族のことなど考えなかったのだろうか?俺は何気なく生きてるんだけど、それって素晴らしいことなんだろうな。まだ犯人は決まってないけど、パレスチナについて今いろいろ調べてる。多くの人が多くの自由を奪われて生きてる。様々な国家事情が背景にあるらしい。
 ただ、俺が被害者の一員だったら、こんなこと考えないだろうな、きれるだろうな。
 しかし、今回は、全ての人がきれそうになるのを抑えて対応しなければいけないのではと思う。


2001年9月11日(火) 海亀売りで驚いてたら・・・ >
 朝、ウォーキング途中、海亀を売ってる現場に出くわした。5匹つぶしたらしい。縦1mはあろう甲羅が5つつまれていた。甲羅は何に使うのとたずねたところ、壁に飾ったり、置物にしたり、いすにしたりとの回答。ちなみに、50コルトバ(約500円)。腕、足の部分、腹の部分、そして頭まで売られていた。ニカラグァ人の好きなゼラチン状の部分もたんまりたるに入れて売られていた。中国の市場で食用の犬、猫などが売られているのをみたことがある俺だけど、さすがに驚いた。いいわるいの議論はともかく貴重な経験だった。
 
 そして、職場に行き、インターネットをみてみると、なんとNYの世界貿易センタービルに航空機が激突とのこと。神戸大震災のときと同じく、いまいち現実味がわかず。俺の火事ではないが、世の中何が起きるかわからない、ただ今後の被害状況の把握、犯人情報が明らかになるにつれて、現実味を帯びてくるだろう。


2001年9月10日(月) 保険会社にまたお世話 >
 火事の後始末で、とりあえず自分の携行品についても対処しなくてはならず、事件後、保険会社と調整していた。加入している保険会社では、まずアメリカ ヒューストン事務所に連絡することになるのだが、コレクトコールするのに結構手間がかかる。保険会社のTELが最初に日本語のメッセージを流すため、ニカラグァ人の交換手が理解できないのである。また、ニカラグァで、はじめてコレクトコールを使ったので、その方法を知る必要があった。
 
 まあ、なんとか説明してつないでもらうと、ヒューストン事務所の保険会社の人と話すことになる。印象はというと、なんか現地の日本人の主婦がパートでやってるような感じである。受付だけで、あとは日本につなぐという調子で、非常に心もとない。これに対して、なんとか冷静に対処し、日本につないでもらい、そこでもう一度同じような説明をするといった段取りである。
 
 結論としては、日本とは、なんとかうまく話することができ、今回のケースは、保険の対象になるとの回答をもらえた。とりあえず一安心。必要書類を揃えて申請しないといけない。あとは、賠償保険のほうである。
 
 今まで、幾度も海外に行っており、何度か保険会社のお世話になったが、またお世話にかかることになるとは思ってなかったよ。海外に行く人には忘れずに海外傷害保険に加入するようお勧めするね。


2001年9月9日(日) 涙と汗は人のために流すもの >
 今日は、1日中、家で過ごす。まず、「氷点」を読み終えた。「氷点」のなかで、陽子が、「涙と汗は人のために流すもの」と言っていたが、また、「氷点」を読みながら泣いてしまった。しかし、この涙は自分のためのものではなく、陽子のためのものだから別にいいよね。
 
 また、ZARDのBESTを聴いた。というか、聴かずにはおれなかった。「心を開いて」という歌の中で、「ビルの隙間に2人座って道行く人をただ眺めていた」という歌詞があるが、そんな感じで誰かとぼーっとしたくなった。
 9時に寝た。


2001年9月8日(土)  忙しさの中で>
 職場に行く。まだ、金曜日にマナグアに行ったはずのDirectorが職場に来ており、月曜日にある程度の説明資料を対外経済協力庁にもっていくから準備するということだった。もう、もっと前から言えばいいのに・・・って感じだが、彼らからすると金曜日までゆっくり仕上げていき、土曜日に一気にやろうといったストーリーだったのかもしれない。結局、土曜日にもかかわらず2時ぐらいまでかかり、資料完成。これで、対外経済協力庁訪問の意味もあるといったもの。

 左手のやけどの治療のため、病院にも行った。はじめて私立病院に行ったが、待ち時間はかからなかった。ニカラグァでは、公立病院の診察料は、基本的に無料であるが、私立病院では有料のため、私立は所得が上の人が主に利用すると行った感じだ。まあ、治療してもらい、包帯を巻いてもらった。これで、両手が、問題を抱えている状態となった。
 
 夕方は、市役所の担当者と文化紹介の打ち合わせをする。また、大使館ともグレイなところが多いので、来週、確認することとした。
 
 夜は、日本人4人で、新しくできた丘の上のレストラン「La Loma(丘)」に行く。景色もよく、内装もかわいらしい感じで、ここちよいレストランだった。また、お客さんが来たときにででも行きたいねと話してた。それから、ディスコに行く。20曲ほど踊って帰る。
 いろいろと思うことはあるが、あわただしく1日をすごすことができた。


2001年9月7日(金) 大きな油断 >
 深夜、寝ているさいちゅう、大変なことを起こしてしまった。火事だ。
 昨夜は、23:00頃就寝したが、午前0時半ごろ目が覚めた。なんか足元のあたりが熱い。みてみると、俺の側で火が燃えていた。どうやら蚊取り線香の上に枕がおちて、火がうつってしまったようだ。それから、急いで、バケツに水をくみ、消火作業をするが一方を消せば、新たなところから火がでてくるといった感じ。火の海ほではないが、まさにテレビの火事の一シーンといった感じだった。それで、ホストファミリーを起こしに行き、結局、消防署に連絡してもらう。

 幸運にも我が家から消防署は、歩いて10秒ほどのところにあるので、まもなく消防車が対応してくれる。ただ、なかなかポンプ車の水が出ない。「水!水!水!」と皆が叫びながら、やっと水がでてきて消火をしてくれた。
 その後は、家は水浸しとなり、なんとか俺の寝床をつくってくれ、眠ることにする。しかし、もちろんろくに寝れるわけでもない。

 起床後は、後始末。お手伝いさんと、更に、むっちゃん、芝っちにも来てもらい掃除をする。焼けかす、水浸しの後などを掃除する。むっちゃん、芝っち本当にありがとう。
 被害としては、主には俺の部屋だけにとどまり、ベッドがほぼ半焼(捨てた)、壁、床などが改装必要、さらに俺個人の所有物が燃えたり、水浸しになった。ただ、無論、家族との信頼関係にも大きな影響があっただろう。それから、左手をやけどしてしまった。
 JICAから調整員の方々も自宅まで来てくださり、現場検証、及び一緒にホストファミリーと今後についてなどお話してもらった。

 夜、家に帰ってきて、雑然とした俺の部屋をみると、何をしてるのだろうと思う。ここ数ヶ月怪我が多く、さらに火事までおこしてしまい、自分自身、油断が大いにあったのだろう。
 なんとかへこまないようにしていきたい。


2001年9月6日(木) 国際文化紹介? >
 ADEPHCA Directorのシドニーは、明日からマナグアに出張するとのこと。月曜日に対外経済協力庁に見返り資金のことで話し合いにいくとのことだが、今日、会議はなし。ピースコーのDavidとちょっとやる気なしモードになる。まあ、月曜日の調整で何をすべきかわかってくれたらいいんだけど。

 よって、午後は、ちょっと街を散策してみる。公園でぼーっとしてた。靴磨きをしてる少年が客を探し歩いてた。耳には、おもちゃの携帯電話をあてて。「Bonito(なかなかいいのもってるじゃねーか)!」と声をかけるとちょっと誇らしげな顔をしてた。

 夜、COCOLOCO(Comite de Cooperante en la Comunidad Costena:湾岸地域協力隊員委員会)の会議に出席する。COCOLOCO、主にブルーフィールズで活動する外国からの協力者のあつまり(ピースコー、青年海外協力隊など)。けしてLocoの集まりではない。(Locoは、スペイン語直訳では「狂人」という意味)ここにも市役所から文化紹介の話がきていたので、そのことについて議論する。ただ、我々には日本文化紹介の話がきているので、我々(日本は、俺しか出席してなかったけど)はちょっと保留ということにした。明日、市役所側と話をするので、そこでどういう方向にするか決めたい。まあ、国際文化紹介にしたほうが、人数も多いし、各国分担にするので簡単といえば簡単かもしれない。ただ、せっかく日本文化紹介をするモードになったので、他のメンバーの意見も聞いて判断したいと思う。


2001年9月5日(水) A walk in the park >
 今日は、朝からむっちゃんとウォーキングをした。朝5:30くらいに起きたが、もうニカラグァ人は、何気なしにたむろしてたり、働いてたりしてた。30分ほどウォーキングしたけど、昼過ぎには、結構身体にきた。昔は鋼の筋肉だったのだが・・・・ また、早起きは朝の時間を有効活用できるのだけど、夜、早く寝なきゃいけないのがきついね。でも、健康にはいいのかな?

 ADEPHCAでは、プロジェクトの資料を読んだり、文化紹介について考えたりする。また、休暇に入ってた受付のエクリナが職場に復帰したので、うだうだ話してた。エクリナは雑談好きなので、暇なときはよく話し相手をしてもらう。(忙しいときは全然話に来ないと怒られるのだけど)

 ちなみに、ADEPHCAには、20歳から28歳まで5人の女性がいるが、全員子供がいる。ただ、夫がいるのは確か1人だけどね。


2001年9月4日(火)  銀行インタビュー
 現在、ADEPHCAで行っている「小規模企業家支援プロジェクト」では、40,00コルトバ(約40万円)までの融資を行っているが、今後、融資額を増やしていこうと考えている。午前中は、その会議に費やし、午後から同僚のDavidと銀行の融資状況を調査すべく街の銀行を訪れた。

 一つの銀行では、現在、最低融資額は、$1,000(約13万円)、利率は、22%/年だった。もう一つの銀行は、$5,000(約65万円)から融資を行っている。利率は24%/年。印象としては、融資を受ける際に、小規模企業家が準備するものがたくさんあり、敷居が高いようだ。また、銀行もブルーフィールズでは十分なサービスを行えていないような感もある。ADEPHCAのプロジェクトは銀行との差別化を図っていくことが必要であるので、今後も調査をつづけていきたい。


2001年9月3日(月) 万華鏡>
 今日は、朝、7:30からと9:00からと2回職場で会議をした。とくに、二回目の会議では、以前から俺が言い続けてきた「見返り資金」の申請についてだった。ようやくやりはじめる気になったかって感じ。まあ、俺からみると遅いなあと思うのだが、彼らのスケジューリングもあるのだろう。ただ、話していくうちに、とんでもない申請額を見込みはじめた。聞き間違いかなとも思ったけど。結局、会議の結果をふまえて、ニカラグァ対外経済協力庁(ニカラグァの援助申請の窓口)にいくつかの事項を確認した。明日、少し軌道修正を図っていかないといけない。

 文化紹介もあるし、何気に仕事をやり始めたが、滞在5ヶ月経った今もネックはスペイン語。とくに、会議で意見を言うときなどもどかしいよね。活動をとおして覚えていかなければいけない。

 また、今日は、久しぶりに郵便局に行き、郵便物をgetすることができた。一つは家族から。日本の食料品や本などを送ってもらった。いっぱい送ってくれたため送料が高かったようで申し訳ない。また、弟の結納の写真などもあり、なかなかの感慨だった。ちなみに彼は今年のクリスマスイブに結婚する。俺だったら、クリスマスイブには結婚しないだろうな。だって、楽しい日が2度重なってしまうじゃん。
 二つめは、前前任者の岩川さんより「マイクロファイナンス」についての本及び資料を送っていただいた。彼女の報告書や写真をみたことがあるが、とても聡明そうな女性。なんにせよ、せっかくの好意を無駄にしないようにしないとね。
 三つめと四つめは、以前働いていた会社の後輩、松井君からの絵葉書だった。一通は、結婚報告。もう一通は、新婚旅行先のイタリアからのもの。去年の今ごろは、午前2時くらいに会社から寮までよく彼とチャリで帰ってたものだが、今、その彼が所帯を持ってると思うとすばらしいものだ。いつか彼の新居にご飯を食べに行こう。「来ないで下さい!」って言われたら、駅の表側の吉牛に行くけどね。

 さて、夜、ご飯を食べた後、例のサマンタが俺の食器を洗ってくれた。しかし、まだ雪解けとはいえない。それから、家族より送ってもらったものの中にお土産用の
「万華鏡」があったのだが、これをサマンタにあげることにした。結構、かわいい代物だった。俺としては、彼女は、万華鏡を覗いた後、きれいな柄に感動し、とびきりの笑顔をみせることを期待した。しかし、その結果はというと、お土産の袋ごと自分達の部屋に持っていき、さらに、使い方わかる?と教えてあげても、「知ってるもん」という感じだった。万華鏡ではなく、ぴょんぴょん飛ぶ「かえるのおもちゃ」にすべきだったのか・・・・


2001年9月2日(日) ロボットの手>
 今日、久しぶりにブルーフィールズに帰った。ブルーフィールズを歩くのはなんかいいね。こじんまりしてて、戻ってきたという感じだった。
 ただ、家に帰ったら例のサマンタが、俺の固定された指をみて、その固定方法というか治療方法についてうじゃうじゃ言ってきた。最後には、「ロボットの手みたい」とかなんとか言ってた。

 夜は、芝っちの家でむっちゃんと3人でお鍋をした。白菜、菜っ葉、ねぎ、しょうゆはブルーフィールズには売ってないので首都マナグアから買って持ってきた。鍋をつつくという感じがよかったし、おいしかった。鍋では油もつかってないし、健康にもいいよね。さらに、コーヒーゼリーとフルーチェもつくってもらった。久しぶりの日本のデザートはおいしい。 

 家に帰る途中、同僚のジェスミラに会った。何気に芝っちの隣の家が彼女のおばあちゃんちらしい。コンクリート建ての芝っちの家に対して、木造の彼女のおばあちゃんちが印象的だった。


<2001年9月1日(土) 日本文化紹介>
 前回、ブルーフィールズに大使が訪問された際、ブルーフィールズ市長より日本文化紹介をしてほしいと打診されていた。10月中旬に日本の援助による市場改築完成式とブルーフィールズ誕生日(98年)の予定があるので、ぜひ一緒にとのことだった。大使館側も乗り気であるが、何気にあと1ヶ月半しか準備期間がない。ブルーフィールズ隊員で相談して、今は、映画上映、展示、あとはブルーフィールズ隊員でできる範囲の出し物などをできればと思い、大使館と調整しているところである。

 俺自身も自分でなにか出し物はできるのかと考えてみた。少々たしなんだ篠笛の演奏という手もあるが、あれはまだ人様に披露レベルものではない。本音ベースでいうと篠笛が少しできるようになってから海外へなにかかしらの形で行こうと思ってたのだが、その前に協力隊に参加となってしまったのである。しかしながら、よくよく思い出してみると俺は昔、書道をやってたのだ。書道交流で中国に行ったのも古きよき思い出。ニカラグァ人の名前を漢字で書いてあげたりするくらいはできるかなと思った。

 それから、過去の文化紹介を行ったときのビデオもみてみた。レオン市とリバス市で行ったのをみたが両方とも非常に大規模なものだった。日本の料理販売、おりがみ教室、日本語教室、風船すくい、もちつきなどの出店を出し、さらに空手、剣道、合気道、歌、着物ショー、書道、盆踊りなどなどを披露していた。今回、ここまでの大規模なものは考えていないが、非常に参考にはなった。こういう機会をふやしていき、ニカラグァ人が少しでも日本を知ってくれたらと思う。

 ちょっと話はずれるが、今、ニカラグァでケーブルテレビが入ることは、以前の日記にも書いたけれども、そのことにより多くのアメリカ文化がニカラグァに浸透している。これはアジア諸国他多くの国々でいえることであるが、アメリカの世界の覇権国パワーの源の一つともいえる。世界中多くの人々がアメリカの豊富な物質文明、音楽、映画などを知っている。

 ニカラグァの日本の認知度は、トヨタ、日産、ホンダ、三菱などのブランド名、電気機器のブランド名、そしてポケモンなどのアニメは非常によく知られているが、その他の文化となるとアメリカ映画のなかにでてくる中国、香港などとごっちゃ、あるいはよく知られてないというような感じともいえる。(無論、少ないながらも非常に詳しい方もいる。)

 俺は、以前より思っているのだが、外国で日本のことを一層知ってもらいたいと思う。世界でも一二の援助国(援助額ベース)である日本。もっとどんな顔をしてるのか知ってもらいたい。人間関係でも同じだが、国際関係でもお互いをよく知ってるほうが、より親しくなれるのではないだろうか?俺の持論ではあるが、「国際関係=人間関係」というのがある。信頼できる友達がいるということは、外交ベースでもさることながら、人と人とのつきあいでも大切なことだよね。
 そういう意味でも今回の文化紹介は、ニカラグァの人々に日本を知ってもらえるきっかけとしたいし、私自身もよいきっかけとしたいと思う。


2001年8月31日(金)
 今日は、映画「ジュラシックパークV」を観に行った。昨日から上映されたのだ。もう日本では上映されてるのかな?まあ、ミーハーと呼ばれようが一応観とかないとね。まあ内容は予想通りってとこ。ただ、恐竜同士の戦いなどCGで全部作ったと思うとすごいもんだなあと感じた。

 夕食は、領事の家にお呼ばれてした。他の隊員の方々が料理の準備をしててくれて、カレーライス、餃子、サラダ、キムチなどを食べることができた。また、領事はかみそりギャグをとばしており、たとえば「領事、血液型は?」と伺ったところ「ギョウザ!」って答えて下さった。どうやら星座を聞かれると思ったのか、裏をかいたギャグなのかわからないけど、非常に明るい人であることは確かである。

 あと、システムエンジニアの先輩隊員に、俺のパソコンでスペイン語のスペルチェックができるようにしてもらった。これは有り難い。これでばりばりスペイン語の文章を書くぞー、なーんてな。


 2001年8月29日(水)
 今日は、おそめさん(同期 料理)、でっちゃん(同期 自動車整備)、もよ(同期 都市計画)とウエンベス市場に行った。おそめさんがお菓子作りの材料を買うので、お付き合いした。ウエンベス市場はモノが沢山あり、更に、結構整然としているので、俺は好き。いろいろうろうろしてみた。途中、服屋さんの売り子で、サンドラという子がいた。かわいくて愛想がいい子だったので、うだうだおしゃべりして、みんなで記念撮影などしてしまった。なんにも買い物しなかったけどいい思い出ができた。ただ、思い出にすぎないという話もあるが、「思い出に変わるならばさようならをこえられるね」という歌詞(By 岡村孝子)もある。ただ、この歌詞については、俺はあまり好きではなく、「思い出に変わってもさようならはこえられない」と思う。だって、さみしいじゃん。

 まあ、ともかくお昼は、ちょっと豪勢に飲茶にする。このお店は、飲茶もおいしく、雰囲気も静かで、かつ客も少ない。よって、俺は好き。みんなも気に入ってくれたようで良かった。

 夜は、西依さん(公衆衛生)とそのいとこの久美子ちゃん、バックパッカーの風間さん、大使館の橋本さんというメンバーで食事をする。カレーライスをつくってもらい大満足。風間さんは、今年4月に会社を退職され、現在世界旅行中とのこと。元バックパッカー(もどき)の俺としても非常にうらやましく、旅行の話を聞かせてもらった。また、橋本さんとは、偶然にも昨夜もご一緒させて頂いていたので2夜連続ということになった。彼女からは「大使館関係のこととか気軽に聞いてくださいね」と言ってもらえたので、今度、うちの家の冷蔵庫を援助してもらえないか相談しようかと思う。まあ、それは冗談として、またいろいろつながりをもたさせてもらえたらと思う。


2001年8月28日(火)
 今日は、健康診断のため、朝から検尿、検便、血液検査などを行った。さらに、指の怪我の診断もしてもらい、石膏の使用からアルミニウムの固定使用とすることになった。それで、1週間ぶりに石膏をはずしてみた。そしたら、心なしか以前より指がまっすぐになっていたのである。これには随行して頂いた石原医療調整員の方共々驚いた。いちおう、石膏した甲斐はあったなと。ただ、石原さんいわく「まっすぐになってからも動くかどうかだよね。たしかにそのとおり。まだしばらくはこの怪我とはお付き合いをしなきゃいけないみたい。

 また、健康診断の結果を待つ間に、眼鏡の修理に行った。運良く、いいお店を紹介してもらい、無料で修理してもらった。こんなことニカラグアではなかなかありえない話だねと友人達から言われた。

 午後からは、健康診断の結果を受けての診察。日本での訓練中に、肝臓の数値が芳しくなく再再検査まで受けさせられた経緯があったため、ちょっと心配だった。万全を期して、前日も断酒していた。結果はというと、「問題なし」。まあ、足も手も傷ついてるけど、いちおう一安心。けっこう、ここでの協力隊隊員で体の中に虫を飼ってる人は多い。

 夜は、愛知県立大学の小池助教授がスタディツアー等のため、ニカラグァに来られていたため、食事会に同席させて頂いた。大使館、専門家、NGOの方々が来られており、ニカラグァや国際協力のいろんな話を聞かせて頂いた。また、小池さん、専門家の有本さん(開発計画)と私は同じ大学出身のため、なかなかローカルの話もさせて頂いた。小池さんは、以前ニカラグアの大使館で勤務されていた経緯もあり、ニカラグァへの援助の話などを聞かせて頂いた。専門は、ラテンアメリカ地域研究・政治外交とのことで、来年からは、大学院のほうで「国際援助」についての講座も受け持たれるとのこと。

 首都マナグアでは、ブルーフィールズと違い、特に日本人との出会いの機会が多い。様々な立場の人からお話を聞くことができるので、俺としては非常に有り難いことである。


2001年8月27日(月)
 今日は、朝から協力隊員の「隊員総会」なるものがあり、出席する。まあ、隊員連絡所の使用方法の調整、各委員の改選、JICA調整員との話し合いなどがもたれた。まあ、どこの組織にでもある総会である。また、隊員も様々な人がいるため、有益なものもあれば意見もあれば、稚拙な意見もありである。

 夜は、以前ADEPHCAで一緒に働いていたコロンビア人同僚アルトゥーロと同期隊員寺ぴょんの3人で飲みに行く。エルサルバドル名物のププサを食べてみる。おやつ感覚でなかなかおいしいけど、チーズププサは、ちょっと口には合わなかった。アルトゥーロとはcooperante(協力者)として共にADEPHCAで勤務してたので、いろいろ俺が思う問題点とかを聞いてもらったりした。彼は、現在、エステリというニカラグァ北部でWIDなどに主に関わっている。彼は、来月、ブルーフィールズに来るということで、なかなか楽しみだ。

 明日は、健康診断、更に指の怪我を診て貰いに行く。それから、大使館に活動の件で調整に行く予定。


2001年8月26日(日)
 朝、隊員連絡所にて「環境部会」に参加した。部会とは同じ目的をもった隊員同士でつくったグループ集団のようなものであり、ニカラグァでは、他には「教育部会」「保健衛生部会」などがある。
 今回の環境部会では、今後の活動内容を話し、環境を焦点とし、隊員活動報告、ディスカッション、施設見学、専門家の意見拝聴、共同プロジェクトなどをできればいいなという話をした。ただ、どのレベルまでやれるかという問題もあり、隊員個々のモチベーションの差もあるから、次回は、ニカラグァの環境に関して感じたことをざっくばらんに話し合うこととした。

 夜は、新隊員(13年度1次隊)の歓迎会を行った。俺達の代は、幹事として準備・運営にあたる。他のメンバーが相当準備してくれたおかげで無事終了。新隊員の人たちも、まあ楽しんでくれたのではと思う。

 ちょっと疲れたのか早めに就寝する。


2001年8月25日(土)
 今朝、また悲しい出来事が起こる。
 目が覚めたらいつものところに眼鏡がない。でも、玄関の鍵を開けなければいけないので、なんとか早くみつけようと探してみたけどない。そうこうしている間に、俺の左足が床の上に落ちていた眼鏡の上を・・・・・・。
「グシャリ」、くにゃっとした感が残った。朝からまた悲しみを胸に一日を過ごすことになった。とりあえずスペアの眼鏡をつけることとする。

 また首都マナグアに上がるべく、飛行場に行く。この前から読んでる三浦綾子「氷点」をおもむろに取り出し、待合室で読み始めてみる。ただ、まだ上巻(「氷点」は上下、さらに「続氷点」上下とある。)にもかかわらず目から出る汗(漫画「キン肉マン」にて悪魔超人アシュラマンが涙したときに使った言葉。「なんだ、この目から出る汗は!」 アシュラマンは幼き時に一度涙したのみであり、そのときは涙とは何か知らなかった。)が止まらない。待合室にいるニカラグァ人は、何をこのチニートは小さな本を読みながら泣いてるのだろうと思ったのかもしれない。ちなみに、ニカラグァは本が非常に少なく、一般人は新聞を読む程度で本を読んでる姿はめったに見たことが無い。また、本は非常に高価でもある。参考までに、この前俺が買ったニカラグァのガイドブックも1500円程度した。
 しかし、高校時代に友達から「氷点」をもらったことがあったが、一度も読まなかった。なのに今、読んでるとは・・・。高校時代にもう少し本を読んでおけばと思う。
                

 俺もだいぶ揺れる飛行機にもなれてきたようで、無事、マナグアに到着。空港から隊員連絡所までのタクシーの値段をはじめて25コルトバ(25円程度)に抑えることに成功した。どうやら運転手の雇い主が韓国人らしく韓国の音楽を流してくれる。いちおう、KOREAが北と南に別れていることも知っているようだった。
 
 連絡所到着後は、明日の新隊員歓迎会準備、愛ちゃん(同期隊員 看護婦)の誕生日会などを行う。また、隊員OBからの支援による「ニカラオ基金」の打ち合わせを傍聴させてもらう。「ニカラオ基金」とは、主に子供への教育を対象とした活動を行う際の支援金システム。本件は、JICAではなく隊員にて運用されている。


2001年8月24日(金)
 今日は、ビッグイベント。清水大使が当地ブルーフィールズを訪問されたのだ。朝一の飛行機で来ブルされ、日本の援助にて改築される市場見学、同じく日本の援助で建築された小学校、中学校、孤児院などを視察され、その後我が職場ADEPHCAを訪問される。
 DIRECTORが職場全体を案内し(といっても狭いので3分程度で終わる)、ADEPHCAの活動状況等をお知らせする。大使の意図としては、日本の
見返り資金(簡易説明は「活動内容」参照)が有効的に使われているかどうかを確認することであっただろうが、「小規模企業家支援プロジェクト」の内容、経緯を説明し、納得頂けたようだ。

 午後は、ブルーフィールズ有力者及び全隊員4名を交えての昼食会。大使は本年4月より着任されたのだが(これまでスペイン語圏駐在経験なし)、他隊員いわく随分流暢にスペイン語を話されていたとのこと。大使たるもの相当勉強されているのだろう。
 ちなみにこのレストラン「シェフマルセル」は、海産物のおいしいレストランで、俺は、「海の幸スープ」を頼んだ。あいかわらずおいしかった。海老、牡蠣、白身の魚などがふんだんに使われており、なかなかの美味。スープの量が多い店では、ご飯を入れて食べるのだが、ここはちょっと少なめのため断念。
 記念撮影後、大使は、地方政府(県庁みたいな感じ)、BICU(大学)などを訪問されて首都に戻られた。 

 俺は、他の隊員の人たちと、公園で隊員雑誌用の写真撮影をしたり、今後の活動についての打ち合わせをしたりして午後を過ごす。

 夜は、ブルーフィールズ在中ボランティアに対するスペイン語教室に参加。今回、はじめて参加したが、ニカラグァのスペイン語のテキストのため、日常よく使うであろう表現がいくつもでてきておもしろかった。ただ、教室はADEPHCAの屋外会議場を使用しているため、鬼のように蚊がいて大変だった。キンカンはいつでも必需品。


<2001年8月23日(木)>
 今朝は、虫さされと水疱の痛みで5:00am頃に目が覚めた。なんと水疱が直径3cm以上に巨大化してた。よって、また病院へ行くことに。

 また、例によって病院で活動している芝っちに調整してもらい、診察をうける。予想通り切り取ることになる。ドクターは、芝っちから教えてもらい「男の子は泣かないの」とか訳わからん日本語を言いながら俺の水疱をきりとった。また、他の用事でむっちゃん(同じ街の隊員 保育士)も病院に現れたのだが、ドクターは俺に今後の対処方法とか話してる最中も、「彼女はどこに住んでる?」とか尋ねてきた。まあ、処置してもらったのだから良かったけどね。

 診察後、お茶をした。ファンタのパイナップルをみつけたので飲んでみた。まあ、炭酸の味が濃いので、他とそんなに違いはないので嫌いではなかった。俺としては、よくみかけるファンタのロッハ(赤いの)のほうが好きではない。やっぱりオレンジでしょ。

 活動後は、隊員雑誌(文集ニカラオ)の担当ページ(ブルーフィールズ紹介)を作成すべく、むっちゃんちに行く。ある程度形にして、夕食をごちそうになる。ハンバーグのようなものと、ガジョピント(赤飯のようなもの)、あと、お茶漬けとお吸い物。

 足が痛むので、タクシーで帰宅。ちなみに、ブルーフィールズ内は、基本的に5コルトバ(約5円)でタクシー移動可能。


<2001年8月22日(水)>
 今朝起きてたら左足のくるぶしの下に水疱ができてた。直径1cmくらい。「もう勘弁してよ」って感じ。5月にも1度できてえらい目にあったのに・・・。 ともかくブルーフィールズへの飛行機の時間もあったのでさおりちゃん(同期隊員 看護婦)にもらったジュースをがぶっと飲んで空港に向かう。 

 今日は、幸運にもほとんど揺れることなくブルーフィールズに到着。
 久しぶりの職場に行き、Dierectorであるシドニーへ簡単に報告を済ませる。それから、金曜日に大使が訪問されることとなったので、そのことについて話す。

 夕方、ピースコーの友達と軽くお茶をする。ニカラグァでは、我々の2倍程度の約150人のピースコー隊員が活動している。ピースコーと協力隊を簡単に比較すると以下のとおり
・供与される生活費は協力隊のほうがよい
・ピースコーのほうが隊員の自由が利く
(移動禁止区域が少ない、米国及び他国への移動が認められている。協力隊は、2年間の派遣期間中3週間のみ限られた国への任国外研修が可能。ニカラグァの場合は、主に中米諸国のみ。日本への一時帰国は基本的に不可。住居変更も比較的自由。ニカラグァ協力隊は基本的にホームステイ)
・ピースコーは現地で語学訓練(期間は3ヶ月弱)、協力隊は、日本で79日間の訓練を受け、ニカラグァの場合、ニカラグァで1ヶ月半の語学研修。

 夕食は、まるちゃん(ラーメン)にする。それだけでは味気ないので、思い切って卵を2つ購入しラーメンに混ぜて食べた。


<2001年8月21日(火)>
 指の件で、病院の検査を受けに行った。まあ、石膏で固めてから1週間しか経ってないし、そんなに進展はしてなかった。結構、水にぬれたりしてたので、もう一度石膏で固めてもらった。それから、病院に行ったついでにA型肝炎の予防注射を打ってもらった。実は、協力隊隊員は、日本での訓練中を含めA型肝炎、B型肝炎、破傷風、狂犬病などの防止のため幾度となく予防接種をする。

 午後は、ここしばらくの疲れがでたせいか昼寝した。4時間くらいしたのかな。その後、同期からボーリングに行こうという誘いを受けた。でも右手使えないし、いいやと固辞した。いちおう、ニカラグァにもボーリング場がある。ただ、陽子(同期隊員 青少年活動)が「せっかくみんなも行くしー」と結構優しく誘ってくれたんで、行こうかなと思い直した。

 行ってみるともちろんスコアは手書き計算。ボールも限られてる。でも、9ピンしかでてこなかったりとかの機械的問題は少なかった。俺は、左腕一本でやるしかなかった。まさに大野豊気分(プロ野球 広島東洋カープが誇る左腕 引退試合での「わが人生悔い無し」はあまりにも有名。)だった。

 やっぱり本気モードでの左でのボーリングは初めてだったし、なかなか大変。ただ、ヘッドピンに当たるコース、力加減を見極めるのに1ゲームは費やした。なんとかピンも少しは倒れ、結局スコア68。2ゲーム目は、ジュースを賭けることに。ただ、もちろんハンディが必要ということで、1フレ目トップの寺ぴょんのスコアをベースに決めた。ちなみに寺ぴょんは、日本ではマイボールを持ってるほどボーリング好き。1ゲーム目スコアは151。俺は、寺ぴょんから70ものハンディをもらい2ゲーム目に突入。滑り出しは、慎重にインコース低めを攻めるがごとく投げて、ラッキーにもスペア。それから、陽子、えっちゃん(同期 自動車整備)もスペア。寺ぴょんは、マークなし。この1フレが全てを決めたといってもよかった。俺は、なんと100越えという偉業を達成。ひょっとすると怪我のショックでちょっとダメージ気味の俺を同期が励ますべくシナリオを作ってくれたのかもしれないけど。いずれにせよ、ボーリングを楽しむことができてよかった。

 夕食は、大華という中華料理屋に行った。ここは台湾人経営の店でなかなかおいしい。結構頼んだけど、1人60コルトバ(600円程度)ですんだ。ただ、寺ぴょんがジュース代を払ってくれたのも一つの要因でもある。
 長期のマナグア滞在を終え、明日、我が街ブルーフィールズに帰ることにする。


<2001年8月20日(月)>
 お金が無くなってきたので銀行に行ってきた。そしたら、驚くべきことが一つ。なんとニカラグァの銀行にはドライブスルーでできるところがあった。まあ、キャスペンサーがまだまだ普及してないのもあるが、ちょっと驚いたね。

 それから、昨日、愛機のデジタルカメラが故障したので、ニカラグァで治ることなら治って欲しいという小さな思いを胸にパソコン・カメラ店で故障してくれるところを探した。KODAKでもだめって言われたけど修理してくれる個人店を紹介してくれた。
 そこのおじさんは、アメリカとカナダでカメラ修繕について学んできた経験もあるということで、結構、すばやく作業してくれた。値段を聞くときは緊張したけど、100コルトバ(約1,000円)ということだったので、ネゴもせず言い値で支払ってきた。いやあ、なおってよかった、俺のデジカメ。ちなみに故障内容は撮影時にレンズカバーが開かなくなったというもの。浜辺で撮りすぎたせいか、砂がはいってしまったらしい。


<2001年8月17日(金)>
 今日は、ショッピングセンター「プラザ インテル」に行ってきた。この建物は、地上3F、地下1Fの規模で、なかには映画館、ファーストフードレストラン街及び商店が入っており、マナグアに滞在しているときには、ときたま利用しているスポット。
 更に、今日は、驚くべきことに「$1ショップ」ができていることを発見した。ニカラグァにもこんな便利なお店ができたのかと少々感動した。日本の百円ショップと同様にこぎれいに商品が並べれられており、生活用品からお菓子類まで置かれていた。俺は、にんじんの皮をむくための皮むき、さらに、ゴム手袋を購入した。ただ、$1と聞くと、随分安く感じるが、13.5コルトバと考えると安易に衝動買いができないかもしれない。


<2001年8月16日(木)>
  5月に日本から船便で送ってもらった荷物が到着したぞー。ざっくりで3ヶ月ほどかかったみたい。まあ、4ヶ月かかるなどとも聞いていたので、ちゃんと早く着いてよかった。文庫本を何冊か頼んでたんだけど、全部ハードカバーの本が入ってたり、1番楽しみにしていた本「世銀の正の遺産・負の遺産」が入っていなかったのは残念だったけど・・・・(後者は冗談です。ほんとは雑誌目当て)

 最近は、協力隊員にもかかわらず怪我のため、協力を受けており、さらに日本からも今回、物資を送付してもらい、すっかり俺は「援助慣れ状態かも!?」とか言ってみたりして。ただ、これも被援助国の気持ちを理解するための必要なことなんだよね。おそらく10年後の俺もそう言うのではないだろうか。よって、しばらくは甘んじて援助を受けよう。

 まあ冗談は置いておいて、しばらくニカラグァで生活してきたけど、確かに援助国である日本に感謝してくれてるいる人がいるのは事実。ただ、「援助慣れ」してるケースが多いのも事実といえるよね。隊員でも、「前任者のセニョール○○は、××を買ってくれたのに、あなたは、何にも買ってくれないの?」とか言われてる人もいるそうだし。あと、一度頼みごとをやってあげたら、また頼んでくる、しまいには、やってあげないと逆切れする人もいるよね。
 だから、援助(正直ベース、「援助」という言葉は好きではない。「協力」のほうが好き)する側としても、ただあげるだけという訳にはいかないし、こっちだけで決めちゃってもいけない。

 それから、話は少し外れるが、「援助外交」(だったと思うけど)という言葉もあるけど、中米諸国は、なんと台湾を国として認めているのです。そのためか、台湾からの援助は非常に多く、ニカラグァでも大統領府、ショッピングセンターなど多くの建物が台湾の援助にて建設されている。ようは、多額の援助があったからこそ、中米諸国は台湾を国として認めたのかもしれない。まさしく「援助」を「外交」のカードに使っているケースです。
 援助について考えてみると、日本は多額の債務を抱えてるし、景気はまだまだ回復しないし、「もーう、他の国に援助するくらいなら、俺達にお金ちょうだいよ。」って思うときも多々あるよね。ただ、俺としては、国際援助には様々な顔があるし、日本にいる人にもそういうことをもっと知ってもらいたい。あと、今後、国会の予算編成で、国際協力関連の予算も焦点となる可能性が高いが、日本のマスコミの情報には流されずにしてほしいと思う。


<2001年8月15日(水)>
  今日は、今回の首都訪問のメイン目的「危機管理講習」を受講した。ニカラグァは火山の噴火、地震、台風の被害を受けてきた歴史があるので、いつなんどきの危機に備えるための対応方法、さらに、身辺の危機管理について学んだ。

 また、当日、対外経済協力庁で働かれている専門家、有本氏も出席しており、日本の援助である見返り資金のことについて相談させて頂いた。有本氏は、ニカラグァの経済に非常に精通されており、いろんな有意義なお話をして頂けるのだが、あと2ヶ月あまりでニカラグァを去られる予定である。
 ADEPHCA(職場)は、対外協力庁との仕事で残していることがあるので、彼がこちらを去られる前に処理したいと思っている。

 ただ、1週間後に指の検査を受けるため、明日、ブルーフィールズに帰ることもできず、しばらくこちらに残らなければいけない。ちょっと悲しい現状である。


<2001年8月14日(火)>
 今日は、朝から病院に行ってきた。結論的には、腱は切れていないとのこと。ただ、1ヶ月ほど指を固定する必要があるとのことで、右手の大部分を石膏で固められてしまった。これで、パソコン打つのも不便だし、水浴びをするときもナイロン袋をつけてしなければいけなくなった。ただ、密かに「日本で手術かも」とか言われていたが、その必要はなくなったかな。

 その後、首都から1時間ほどのところにあるラ・コンセプシオン市の同期隊員寺ぴょんを訪れた。(後日、活動記にて詳細記載予定)

 夜は、久しぶりに同期がほぼ勢揃いした。みんなで肩を組んで「若い力」(協力隊の歌)を歌いあったわけではないが、いろいろふざけあったりして再会を楽しんだ。


<2001年8月13日(月)>
 今日は、例のつき指の件で、診察を受けた。
 まずは、日本大使館に行き、井上医務官(整形外科医)の診察を受けた。彼は、基本的には、大使の傾向管理を主にあずかる人である。すっごいおじいさんをイメージしてたら、予想を反し、40代前半くらいの方で、非常に物腰のやわらかい人だった。
 ブルーフィールズにて撮影したレントゲン写真をみせると、更にちがう角度から診てみる必要があるとのコメント。とりあえず6週間ほど固定する必要があるとのことだった。
 その後、軍病院に赴き、レントゲン撮影。そして、また明日7:00AMにもう一度診てもらうこととなった。ただ、そこでも
「operacion」という単語が聞こえてきた。おそらく固定だけですむとは思うが、これは明日にならないとわからない。

 病院以外では、念願の映画を観に行った。ブルーフィールズには映画館がないので相当楽しみだった。観たのは、ロバート・デニーロなどが出演してる「15 minutos」。まあまあおもしろかった。ただ、相変わらず鬼のようにクーラーがきいてて寒かったよ。更に、この映画館は終了するとすぐ出入り口を開いてしまうため、余韻を楽しむができず。従業員達は、サービスのつもりなんだろうけど、この辺の映画ファンの心情を理解していただけるようになってほしいね。


<2001年8月12日(日)>
 今日は、昼食はちょっとこ洒落たニカラグァ料理屋に行き、その後、喫茶店に行った。
 たのしくおしゃべりなどして、帰ろうとするときに寺ぴょん(同期隊員 村落開発普及員)が、グラスを割ってしまった。店員がすぐさま処理してくれた。寺ぴょんが、「Perdon」(すいません)というと「No se preocupe」(心配することありませんよ)というやさしい対応。なかなかやるなと思ったけど、ちょっと不安もよぎった。

 そして、いざ会計。やっぱりかというべくグラス代を請求してきた。日本円で約500円。さらに、そのグラス代は消費税も含んでるし。(ちなみにニカラグァの消費税は15%) 彼もさすがにショックをうけてたけど、今度また壊したときには、値段がわかってるからぼったくれないねということで話をまとめた。


<2001年8月11日(土)>
 今日は、朝一の飛行機で首都マナグアに来た。ちなみに任地ブルーフィールズからは飛行機で1時間くらいである。また、ボート・バスを利用して首都に来ることができるが、安全管理のため禁止されてるのだ。

 ただ、朝6:00くらいに目が覚めたが、また鬼のようなスコール。また飛行機が揺れるよと嘆いてたけど、搭乗のときには運良く晴れた。飛行機は16人乗り。コクピットも見えるし、いい意味ではアットホーム。やっぱり途中から揺れ出したけど、三浦綾子の「氷点」を読みながら揺れの恐怖を防いだ。

 マナグアは、ブルーフィールズとは違い、やっぱりいろんなものが揃ってるので、さっそく外出。ス-パーをちょこっと覗いたあと、カテドラル見物。マナグア地震の際に、旧カテドラルが崩壊したため、今は、ちょっと近代的な外観のカテドラルとなっている。下手したら日本の新興宗教の建物のよう。天井も黄色、側面の窓もピンクとよくわからない色彩を使用してるが、まあ落ち着くことは落ち着くよね。今度は、日本語の聖書を読んでるかのように文庫本でも持っていってみようかなと思う。

 昼食後は、リッチにインターコンチネンタルホテルにケーキセットを食べに行く。ただ、値段交渉でいろいろともめ、ちょっとサービスに不満。ただ、ここはニカ最高のホテルなんだけど・・・ しかし、トイレの豪華さには感動した。
 更に、ウエンベス市場という大きな市場に行く。ここも初めて。野菜から衣服、電気製品まであらゆるものを扱っており、思ったより整然としている。俺はアルバムとTシャツを買った。Tシャツは、前から買いたかったやつで前面に「YO AMO NICARAGUA EN PUTA」(超ニカ好き! 邦訳:Hiro)と書かれている。これは気に入ったね。ぜひ、他の国に研修旅行に行く際も着ていきたいと今のところは思ってる。あと、絵もほんわかした気に入るようなやつがあった。今度行ったら買おうかな。

 今夜からは、協力隊隊員連絡所(隊員の集合/宿泊施設)に宿泊。
 夕食は、ククレカレーをもらって、食べた。もうがつがつ食べたよ。それから、他隊員と朝までトークしてた。また、領事も連絡所に来てくださったので、領事に、かみそりギャグからニカラグァの政治問題までいろんなお話をしていただいた。
 ひとつ領事ギャグを記す。Hiro「領事、にんきはどれくらいですか?」 領事「いやあ、にんきはさっぱりだよ。」


<2001年8月10日(金)>
 今日は、職場で一大イベントがあった。写真撮影をすることにしたのである。前から言っていたので、とくに女性職員は、きれいな服にメークをして職場に現れた。それで、順ちゃんが15:00くらいに現れてくれたのだが、2人欠けていたため撮影できず。そのため、芝っちが来てくれるのを待つ。ただ、全員揃い刻々と時間がたち、俺のなかでの焦燥感が溢れ出す。「まだかよ、芝っち。」そして、16:20にタクシーにて現れてくれる。そして、緊張の写真撮影、12名ほどでの撮影が終わり、なんとか職務を果たす。実は、この写真は2002年JICAニカラグァ事務所カレンダー用の写真なのである。

 夜は、順ちゃんが野菜をくれてたので、その野菜をつかってマルちゃんラーメンを作る。野菜は相当念入りに下ごしらえをする。最後に卵をひとつ入れて出来上がり。
 しかし、例のサマンタ、今日は、俺の部屋を掃除してくれたらしい。ただし、それからも無視はつづく。困ったものだ。


<2001年8月9日(木)>
 実は、今月はじめから右手の薬指第1間接がまがったままなのである。理由は、末娘のサマンタとのバトル(空手ごっこ)のため。俺の手刀が決まったときにやってしまった。しばらくほっておいてもいっこうに真っ直ぐにならないため、いろんな人に相談し、今日、病院にいくことにした。

 しかし、悪いことは重なるもので、今朝、着替えている最中に、長女のサミアがノックしてきた際、あわてて対応しようとしたら、滑って転んでしまった。手の指は大丈夫だったけど、足の小指をどっかにあてたらしく、爪が半分はがれ、血も出た。もう困ったものだよ。

 それで、病院に行った。病院には、隊員の芝っちが看護婦として活動しており、アテンドしてもらった。レントゲンをとってもらい、なおかつ足のほうも診てもらった。手のほうは、もちろん異状ないとのこと。そんなのわかってるって。でも、なんか
「Operacionという単語が聞こえてきた。えっ、それって手術じゃん。まあ、この場はレントゲン写真だけ受け取ることにして、来週、首都マナグアで日本人整形外科医の診断を受けることにした。足のほうは、想像以上に丁寧に消毒してくれた。湯水のごとく消毒液をつかってもらった。いいやら、悪いやら。

 昼は、鬼のようなスコールだったため、タクシーで職場に行った。昨日配属となったピースコーのMaxは、ずぶぬれになって現れた。印象としては、非常に好青年である。あえていうならディカプリオ系。コンピューターのスペシャリストらしい。また、俺の米国での留学先大学出身とのこと。仲良くやっていきたい。


<2001年8月8日(水)>
 今日は、職場のカウンターパートとピースコーのDavid、そして私の3人で、2001〜2006年のプランについての会議をすることになっていた。密かにリキを入れ、俺もいくつかのプロジェクト案を用意していた。

 会議をはじめた。ただ、なんか方向が違う。俺としては、カウンターパートが将来この組織ADEPHCAをどうしたいのか等を語るのかと思いきや、そうではない。結論的には、プロジェクトを「Planificacion(計画をたてる)する際に、いかにプランするかというテキストのようなものを作ろうということだった。正直ベース、意気消沈。Davidも同様。ニカラグァ人は、ほんとマニュアル作りが好きだ。でも、ほとんどいかしてないような気がする。

 さて、家に帰って、トマトと卵のスープをつくることとする。これは、俺が中国にいたとき、韓国人のルームメート李がつくってくれた思い出のメニュー。ただ、俺が作るのはもちろんはじめて。6年前一度みたのを思い出しながらやってみたけど、結構、おいしくつくれた。今度は、もう少し甘味をだしたいね。

 ただ、調理している最中に、サマンタ(ちなみに7歳)が横でいろいろとぐちゃぐちゃ言ってくるのには勘弁して頂きたかった。彼女は、俺に対して、無視したりとか非常に冷たい態度をとりつづけていて、困ったものであるが、別に今日もさっぱり関係は好転せずといった感じである。


<2001年8月7日(火)>
 今日は、朝から、またもや相当ショックを受けることになってしまった。ショックの大小もあるが、クロスボンバー(漫画「キン肉マン」における完璧超人ネプチューンマンキングとネプチューンマンによる必殺技。まさに2人がかりのアックスボンバー。覆面超人の覆面を剥ぎ、なおかつ相手をKOしてしまう恐ろしい技である。ウォーズマン、アシュラマン、キン肉マングレートなど数々の実力超人も覆面・仮面を奪われた。)をうけたような感じかもしれない。何かはりつめていたものがきれていく、そんな気がした。

 昼、自分の部屋のちょっと大きめなベットに寝そべりながら、久しく温存していたZARDの「負けないで」他ファーストアルバムの「揺れる想い」全10曲を聞いてしまった。

 午後なんとか活動をこなし、夕食は、あっさりとスープにしようかなと考えていたところ、順ちゃん(同じ街の協力隊員 システムエンジニア)が職場に来てくれたので、一緒に晩飯をたべることにした。食堂に行き、俺は蟹スープを頼む。これは、前にピースコーの人が食べてておしいそーとか思ってたやつなので、一応念願がかなったという感じ。野菜も結構入ってて、かつ、蟹のだしもある程度きいてて、まあ満足だった。

 とりあえず土曜日から協力隊隊員の集まりに出席するため、首都マナグアに赴く。とりあえずそれを励みに過ごそう。


<2001年8月6日(月)>
 今日は、また芝っちからもらった明太子スパゲティの素があったのでつくってみた。正直ベース、我が人生で初めてのスパゲティ調理。さっそく麺を買ってきた。250gで4.5コルトバ。日本円だと約40円ほど。最初、麺は折るのかなあとか思ったけど、そのまま茹でてみた。スバゲティは茹で方で味の大半が決まるといわれているため、最新の注意を払う。茹ではじめて、やっぱり麺は折らなくてよかったと思った。実は、家の人がつくるスパゲティの麺は非常に短いのである。やっと普通のみためのスパゲティを食べられることを確信したよ。

 ほどよく茹でた後、湯切りをして明太子スパゲティの素をまぶす。その一方で炊いていたご飯もできあがり、いよいよ、ひとりぼっちの夕ご飯。もう慣れたけど、どこかしらのさみしさはただよっているのではないか。味のほうはというとまあまあ。久しぶりだなというか約半年振りくらいの明太子の味が辛く感じたけど。贅沢をいえばスープがほしいね。今日、スープのだしみたいなものを買ってきたので、もうすぐいよいよスープに挑戦である。

 そういや、ニカ人のつくるスパゲティの麺は非常にやわらかい。今回の私の挑戦から検証するに、ニカ人はただのゆですぎなのだろう。だって、同じ調理道具つかってうまくできたもん。

 夕食後は、いつものごとく19:00からのテレノベラ(TVドラマ)「Abrazame muy fuerte」(とっても強く私をだきしめて 邦訳:Hiro)をみて、休憩した。中南米では、テレノベラが非常に人気がある。基本的に1時間もので、月〜金までやってる。超人気ノベラ「Yo soy Betty la fea」(私はブスなベティよ 邦訳:Hiro)などは、毎回、視聴率50%を超えているのではと思われるほどである。


<2001年8月5日(日)>
 今日は、日曜日だが、昨日食べた海亀肉のこってり感が残っていてのか、早起きしてしまった。胃のもたれを治すためにもあっさりしたものが食べたくなった。それで朝ごはんはお茶漬けに決定。昨日、芝っち(同じ街の協力隊隊員 看護婦)からもらったお茶漬けの素をつかい、つくってみた。おかげで非常におなかが癒されたよ。そういや、ニカラグァでは、なかなかあっさりした料理をみつけることができないね。

 ただ、夕食ではえらい目をみた。得意の野菜炒めをつくったが、2日前に購入したソーセージが腐ってたみたい。それでも、こんがりやけばいいだろと信じ、食べてみたものの、食後から腹痛がはじまり、すっかり吐き出してしまった。

 家の冷蔵庫が再起不能の状態のため、買い置きができないのがほんとつらいね。今日の事件で、いっそう冷蔵庫購入という小さな夢をおいかけてみようと思った。ちなみに、正方形サイズの小さな冷蔵庫でも、日本円で20,000円ほどはするのが現実。
 さて、明日は何をつくろう。